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ストーブ

かなり初期に書いた作品です。

三題噺(3つのお題からお話を考えるショートショート)で着想を得たものだった気がしますが、どんなお題だったかは思い出せません。

最初は5000字程度で終わらせるつもりだったものが、気づけば2万字を超えてしまっていました。

だらっと長くなった割には、​物語の構成がきれいでお気に入りです。

​石油ストーブ、冬には欠かせないですよね。


実家の母から電話がかかってきたのは、約三ヶ月振りのことだった。
三ヶ月前の電話は、年末は帰ってくるのかという用件に、康祐(こうすけ)さん次第だと返したのだったと思う。
結局康祐さんは仕事がまったく落ち着かず、年末実家に帰るどころか、クリスマスを二人でのんびり過ごすことも叶わなかった。
ようやく予定が決まりそうだという段になってこちらから連絡を入れ、帰れない旨を伝えると、あんただけでも帰っておいでと言われたのを思い出す。
仕事に疲れた康祐さんを一人にしたくないと硬く断って、去年の暮れは年末になっても帰りの遅い旦那を労って過ごした。
とにかく三ヶ月ぶりに聞く母の声は、なんだかすっかり元気を失ってしまっていて、取り留めのない会話をしていてもまったく気もそぞろといった様子だった。

「どうしたの、母さん。なんか元気ないわね」

こちらがそう切り出してようやく、母は一番重要なことを話し始める。

 

「それがね……あんた覚えてるかしらね、お兄ちゃんのこと」
「兄さん? 忘れるわけないじゃない、康彦(やすひこ)兄さんがどうかしたの?」

何を言い出すかと思えば。年子の兄をどう足掻(あが)いたら忘れられるというのだろう。
しかし母の声は依然として暗く沈んだまま、

「康彦じゃなくて……」

声が一度遠ざかり、

 

「貴文(たかふみ)くんのことよ」

息を潜めて、母は聞き慣れない名前を口にした。

「ああ……、まぁ、覚えてるって言えば、覚えてるけど」

言われて思い出した、という方が正しい。
貴文とは、私より10ばかり年上の兄だ。康彦兄さんが私の一つ上だから、康彦兄さんからも10近く上の兄ということになる。
確か、康彦兄さんは、タカにいと呼んでとても懐いていた覚えがある。
私は……なんと呼んでいただろう。貴文兄さんが、私のことをアヤと呼んでいたのはかろうじて思い出せる。
アヤカのアヤ。思い出せるのは、『アヤ、あっちいってろ』と言われたことだけだった。
そのせいだろうか。貴文兄さんには、なんとなく怖いイメージがある。

 

「でも、貴文兄さんが出て行ったのって、私が小学校にあがる前のことじゃない。顔も覚えてないわよ」
「そうよねぇ……」

 

母の声に陰りが増した。
母にとってもあまりいい思い出ではないのだろう。
なにせ血のつながっていない思春期の息子だ。当時はよほど苦労しただろうと思う。

 

「……それで、その貴文兄さんがどうかしたの? まさかいまさら戻ってくるってわけじゃないでしょうね」

 

あの父に絶縁状を叩き付けて出て行ったのだ。二度と相馬の家の敷居は跨(また)げないはずだ。
ともすれば、千葉県に入ることすら止められるかもしれない。
父ならやりかねない。

「それがね、貴文くん、亡くなったって言うのよ」

 

母は、声を沈めたまま、一つ一つ区切りをつけてそう告げた。

 

「え? 貴文兄さん、死んだの?」

 

思わず直接的な物言いをしてしまう。
顔も思い出せない兄が死んだと言われても、なんの実感も湧かないけど、それでも肉親の一人だ。驚きはする。

 

「そうらしいのよ。交通事故でね、わき見運転のトラックに突っ込まれたとかで……」
「そうなんだ……」

 

母の言葉は、私の頭で現実味を伴わずに流れていった。
なんだかキャスターに読み上げられたニュースを聞いている気分だ。こういうのを、対岸の火事というのだろうか。

 

「お葬式をね、するらしいのよ。奥さんから電話があってね」
「奥さん? って、ああ、貴文兄さんの」

 

反射的に聞き返してから、すぐに納得する。
結婚くらいしてるか。私だって結婚している。
10も年上の兄が結婚していなかったら、その方が心配になってしまう。

 

「えぇ、香織さんって言うらしいんだけどね。いい子だったわよ? 貴文さんは連絡しなくて

いいって言ってたけど、やっぱりこういうことは大事なことだからって。お通夜の時は気がつかなくてごめんなさいって謝ってくれてね」
「ふぅん……」

顔も思い出せない兄の、顔も知らない奥さんは、私からすればまったく知らない人間だ。
しかし兄が勘当されていなければ、私の姉になったかもしれない人ではある。
興味がないわけではなかった。

 

「だからね、私はお葬式に顔出してあげたいんだけど、お父さんがね……」
「あー、ダメって言われたのね」
「そうなのよ。あいつはとっくに相馬の家の者じゃないんだから、葬式に出てやる義理なんかない! って怒っちゃって……」

それでずっと小声なのか。
いくらなんでも、父が聞き耳を立てているとは思わないけど、実家の電話は廊下に設置されている。

父がトイレにでも立てば、誰に電話しているのかと訊かれるくらいはあるかもしれない。

 

「困ったものね、父さんにも」

 

父が怒る様子は容易に想像できた。子供の頃から幾度となく見てきた光景だ。

「もう10年は前のことでしょ? いい加減忘れてもいいのにね」
「20年よ。貴文くん、中学2年だったから」

 

20年前。その時の私は4歳だ。なにも覚えていないわけだ。

 

「でも、父さんがそう言うならしょうがないじゃない。どうせ行ったって、知らない人ばかりなわけでしょ? むしろ気が楽なんじゃない?」

 

母は父には逆らえない。康彦兄さんも逆らえない。
しかし父は、一人娘の私にだけは甘いところがあった。

 

「でもわざわざ連絡してきてくれたのよ? 行かなかったら悪いじゃない。私も、貴文くんになにもしてあげられなかったから、お葬式くらい出てあげなきゃ悪いと思うし……」

 

どうにも歯切れが悪い。これは愚痴なのだろうか。
母が私にそのようなことで電話をかけてくるのは珍しい。

 

「じゃあ、康彦兄さんに行ってもらったら?」
「ダメよ康彦は。会社もあるし、忌引きなんて使ったらあの人に筒抜けじゃない」

それもそうだ。会長となって一線を退いたとは言え、社内で何かあれば叔父さんから父に連絡が入るだろう。
『康彦くん今日忌引きで休んだけど、いったい誰が亡くなったんだい?』なんて訊かれでもしたら、父は一瞬で茹で上がってしまう。

 

「それでね文香。悪いんだけどあんた、お葬式に行って来てくれない? もうあんたしか頼める人がいないのよ」
「――えっ!? 私!?」

ひょっとしたら康彦兄さんがズル休みしたと思われるかもしれないな、などと考えていたら、母はとんでもないことを言い出した。

 

「無理よ私。だって貴文兄さんの顔も思い出せないのよ? なんて言ったらいいかわかんないわよ」

 

電話先には見えないというのに、思わず手を横にせわしく振ってしまう。

 

「そこをなんとかお願いよ。いくら出て行ったとは言え、貴文くんも文彦さんの息子なのよ。お葬式に誰も行かないなんて、ひどすぎるじゃない」
「それはそうだけど……急に言われても困るわよ、康祐さんのご飯だってあるし」

 

康祐さんは、私の料理を好きだと言ってくれる。
だから、出来るだけ毎日欠かさず、手料理で帰宅を迎えたい。

 

「康祐さんだって大人なんだから、一日くらい一人にしたって大丈夫よ」
「そりゃあ、そうだけど……」

 

けれど母にはそんなことは関係ないらしかった。
確かに康祐さんも、自分のことはいいからと言ってくれるだろう。

 

「じゃあお父さんに聞かれたらまずいから、もう切るわね。とにかく、一度康祐さんとも相談してみてちょうだい。あんたがダメなら、お断りの電話入れるから。じゃあね」
「あ、ちょっと母さん!」

 

そう言って、母は慌てて電話を切ってしまう。
受話器を置いて、私は一つため息をついた。

 

「困ったなぁ……」

 

康祐さんは、優しい人だ。
このことを話せば、私や母に気を遣って、断ることなど出来ないだろう。
だから出来れば、私が断っておきたかった。

断っておきたかったのだけど……。

 

「困ったなぁ」

 

私はもう一度大きなため息をつく。
とりあえず、夕飯の時にでも相談しよう。
康祐さんは今日も帰りが遅いだろうか。早いといいな。
あまり手短に済む話でもなさそうだから。

*

東京から青森に、新幹線が開通した。
おかげさまで東京から新青森まで、4時間弱で行けてしまう。
朝のうちに出て昼頃に着き、夕方に青森を出れば夜には帰ってこられる。
私が母のお願いを断りきれなかった理由の一つだ。
幸い、告別式の開始は斎場(さいじょう)の都合で午後らしい。
さらに運の良いことに、東北新幹線の座席が、当日でもとれた。
どうやらキャンセルが出たらしい。
ここまで揃うと、もう行かないわけにはいかない。
なんだか運命的なものまで感じてしまう。

 

「本当に間に合っちゃうとはね……」

 

新青森の駅で新幹線を降りて、私は一人ごちる。
東北新幹線は、埼玉、栃木、福島、宮城、岩手と、実に5つの県を経由してから青森に入る。
東京を8時40分に出て、それだけの道程を踏んでも、現在時刻は12時前だ。
本州をほとんど縦断して、たった3時間半。
文明というのはすごいな、と素直に感心する。
4月を目前にした青森は、まだまだ寒い。新幹線のホームにこそ雪は降っていないものの、駅から一歩出ればそこかしこに雪が積もっていた。
告別式は14時からだ。時間にはまだ余裕がある。
どこかでお昼を食べてから、斎場に向かおう。
ロータリーで待っているタクシーを捕まえて、斎場の住所を伝えてから、その近辺の美味しいお店を教えてもらう。
斎場の近くにはレストランの類はあまりないらしい。運転手さんは、少し遠いですけどねと前置きしてから、美味しい洋食屋を教えてくれた。
そこに向かってくださいと伝えて、私は外の景色に目を向ける。
街中は、雪が残っている以外は、故郷の千葉とそう変わりないように思えた。
しかし雪国らしく、家々には屋根に届く梯子が用意されている。
長い脚立を置いている家もあれば、壁に備え付けの梯子がついている家もあった。
雪かきのためだろう。千葉と東京にしか住んだ経験のない私には、とても新鮮なものだ。

 

「お葬式ですか?」

 

斎場の住所を伝えたし、喪服に身を包んでいたからだろう。運転手さんはそう尋ねて来た。

 

「ええ、そうなんです」

 

肯定すると、運転手さんは、

 

「どちらの方がお亡くなりで? ご家族ですか?」

 

踏み込んで会話を広げにかかる。

 

「家族のような、そうでないような」

私が少し困って笑うと、運転手さんは、はぁ、とよく分かっていない様子だ。
当然だろう。私にもよく分からない。

 

「……私が幼い頃に出て行った兄が、死んだんです」

 

少し悩んだが、ありのままを伝えることにした。

 

「そうなんですか。お悔やみ申し上げます」

 

運転手さんは、視線を前に向けたまま、少し頭を下げた。
それきり静かになってしまう。
あまりお喋りが得意な人ではないのだろう。
私も得意な方ではないから、これでいいのかもしれない。
もう一度、窓の外に目を向ける。
……顔も覚えていない兄の、ここが故郷。
貴文兄さんは、千葉の相馬の家を出てから、ずっと青森で暮らしていたようだ。
貴文兄さんの実母――父の前妻だけど、私からすれば、まったく知りもしない人。
その生家が、この青森にあるらしい。
平野貴子というのが、父の前妻の名前だったと、午前中の新幹線の中で母から教えてもらった。
私は知りもしなかったことだけれど、貴文兄さんは、相馬の家を出てから、母の実家に戻ったのだそうだ。
父が正式に相馬貴文を勘当して、平野貴子さんが兄を引き取って、兄は平野貴文と名を変えることになった。
その兄と結婚して平野と名乗ることになった、兄の奥さんの香織さん。
その香織さんが、おそらく喪主を務めているのだろう。
私からすれば、見知らぬ土地で育った、見知らぬ人。
……それはきっと、あちらも同じなのだろうな。

 

「着きましたよ」

 

と、運転手さんが告げる。

 

「ありがとうございました」

 

私は運転手さんに運賃を支払い、タクシーを降りた。
運転手さんが紹介してくれたお店は、いかにも町の洋食屋さんといった様子だった。
アットホームな雰囲気の中に、おしゃれな内装で欧風の様相を呈している。
私は窓際のテーブルを選んで席に着くと、好物のオムライスを頼んだ。
食事を済ませると、もう一度タクシーを呼んで斎場へと向かう。
新しい運転手さんに、またお葬式ですかと訊かれて、困ってしまった。
今度は、お世話になった方でと、嘘のような本当のようなことを言っておいた。
斎場は、既にすっかり葬儀の装いが整っていた。
『平野貴文』、『葬儀』の文字が目に入る。
そこに至っても、私はまだ実感が持てないでいた。
受付に行くと、女性が二人、言葉を交わしているのが見える。
私が近づいてくるのを見留めると、二人はこちらに向き直る。
向かって左の女性は、髪を短く切り、凛とした面差しの人だ。
対して右の女性は、腰まで届こうかというほど髪が長く、柔和な顔立ちの、いかにもやさしそうな人だった。

 

「本日はお忙しい中お越しいただいて、ありがとうございます」

 

左の女性が口を開き、すっと腰を折る。
きれいな所作(しょさ)だ。

「この度は、誠にご愁傷様です。心からお悔やみ申し上げます」

私も居住まいを正して、失礼のないように頭を下げた。
カバンを開けて、前日のうちに用意したご霊前を取り出す。
短髪の女性にそれを差し出すと、

 

「お預かりします」

 

と言って、女性は両手で恭(うやうや)しくご霊前を受け取る。
それをテーブルに置くと、手を返して帳簿を差し、

「恐れ入りますが、こちらにご住所とお名前をご記入ください」

粛々(しゅくしゅく)と口上を述べた。
なんだかとても雰囲気のある人だな。
私は用意されているペンを手に取り、君島文香、東京都と、住所氏名を書いていく。

 

「君島……フミカさん、ですか?」

 

すると、一連の事柄を黙って見ていた長髪の女性が、初めて口を開いた。

 

「いえ、これでアヤカと読みます。よく間違えられます」
「……アヤカ、さん?」

なんだか怪訝(けげん)そうな声だ。
書き終えたのでペンを置くと、顔をあげて長髪の女性に目を向ける。

 

「すみません、失礼ですが、ひょっとして旧姓は相馬さんとおっしゃるのでは」
「え? はい、そうですが」

長髪の女性は、少し興奮した様子で、詰め寄るようにそう尋ねて来た。
どうして分かるのだろうと思ったが、彼女の顔を見て気づく。
よく見ると、化粧の下の瞼が、赤く腫れていた。

 

「ああ、やっぱり」

 

女性は私の手をとり、

 

「じゃあ、あなたがタカくんの妹さんのアヤカさんなんですね。私、香織といいます。タカくんの妻です」

 

そう言って、強く手を握った。

 

「あなたが、香織さん……」

 

香織さんは、泣き出しそうになりながら、じっと私の目を見つめた。
とても純粋な目だ。

 

「タカくんからお話はかねがね……今日は来てくれて、本当にありがとうございます。タカくんもきっと喜びます」
「あ、いえ……恐縮です。お悔やみ申し上げます」

 

戸惑いながら会釈をする。

 

「香織、奥に上げてあげなさい。積もる話もあるでしょう」
「あ、そうだね。ごめんね、サトちゃん。あとお願いね」

 

横合いから短髪の女性が静かに促した。
サトちゃんと呼ばれたその女性は、任せてと短く答えて、背筋を正す。
私の他には、まだ誰もいないのにな。まじめな人だ。

 

「それじゃあ、アヤカさん。こっちにどうぞ。お座敷で少しお話しましょう」

 

香織さんは、手を奥に差し伸べる。
私は促されるままに、式場へと入った。

 


*

 

 


式場に入ると、右手に大きな開き戸があり、左手には一段あがってお座敷が見えた。
廊下は奥へと長く続き、突き当たりは大きな両開きのドアになっているのが見える。

 

「どうぞ、履物を置いてあがってください」
「あ、はい」

 

場内の様子を眺めていると、背中から香織さんの声がかかった。
パンプスを脱いできれいに揃えてから、お座敷に上がる。
お座敷は三部屋の間仕切りを開放した広いものだった。

 

「かけて待っててください。今お茶をお持ちしますから」
「そんな、お構いなく」

 

私がそう言って振り返った時には、香織さんの姿は既に見えなかった。
行動的な人だ。
お座敷に向き直ると、たくさん用意された座布団のどこに座ったものかと悩んでしまう。
確か、こういったものには上座とか下座とかがあるのだったか。
そう思いはするものの、どちらが上でどちらが下なのか、はたまた自分はいったい上なのか下なのかも分からない。
結局どこに座っていいものか分からないでいると、

「あら、そんな立ってないで座ってください!」

 

お盆に二人分の湯飲みを乗せて、香織さんがやって来る。
香織さんが私の目の前に湯飲みを置いたので、私は礼を述べながらそこに座った。
香織さんは私の向かいにもう一つの湯飲みを置くと、テーブルを回り込んで私の正面に座る。
立っていた時には私よりやや低かった香織さんの目線が、ほとんど私と同じ高さになった。
香織さんは、お茶を口に運ぶ私を見て、何が嬉しいのか顔を綻(ほころ)ばせて
いる。

「遠いところをありがとう。疲れたでしょう」
「いえ、新幹線で一本でしたから。間に合って良かったです」

 

香織さんがお茶も飲まずに喋り始めるので、私も湯飲みを置いて言葉を返した。

 

「東北新幹線ね、開通したのよね……ごめんなさい、昨日の今日で、無理を言ってしまって。来てもらえなくても仕方ないなって思ってたの」
「ええ、まぁ、急なことでしたから、母は都合が合わなくて。私が母の代わりに出席させていただくことになりました」
「そうよね、本当にごめんなさい。アヤカさんだけでも来てもらえて本当に嬉しいです。ありがとうね」

 

そう言って、香織さんは傍らにおいてあった手提げ袋から何かを取り出す。
写真だった。
それを私に差し出す。

 

「これね、半年前に撮った、私たち家族の写真なんです。タカくん、ずっと連絡の一つもしてなかったみたいだから……何かもらって欲しくて」
「はあ、ありがとうございます」

 

私は写真を受け取って、眺める。
写真には、ポロシャツにスラックス姿の恰幅(かっぷく)のいい男性と、可愛らしい格好の香織さんと、男性の肩に乗ったTシャツに短パンの男の子が映っていた。
つまり。この男性が、貴文兄さんなのだろう。
私には見覚えがない男性だった。

 

「これが、貴文兄さんなんですね」

 

確認のために呟くと、香織さんは、

 

「ええ、そうよ。肩車されてるのが、私たちの子供。裕貴(ひろき)って言うの。もうすぐ4年生なのよ。元気なのが取り柄なんだけどね、ちょっと元気すぎて困ってるの」

と、写真を指差して教えてくれた。
裕貴くんというらしいその男の子は、男性の肩に乗って、とても楽しそうに笑っている。

 

「お子さんが、いらっしゃるんですね」
「ええ。今はお義母さんに預かってもらってるけどね、ここに来てるのよ。良かったら会っていって」
「……」

 

香織さんはそう言うけれど、私は正直気が進まなかった。
なんと名乗ればいいのだろう。お父さんの妹です、とでも言えばいいのだろうか。
貴文兄さんは、このポロシャツの男性は、私のことを、子供に話していたのだろうか。

 

「アヤカさんのことはね、タカくんからよく聞いてたの。あと、ヤスヒコくんよね? 二人とも、俺にとっても懐いてくれてたって……二人を残して来てしまったこと、タカくん、ずっと後悔してたのよ」
「貴文兄さんが? 後悔を?」

 

驚いて顔を上げると、香織さんのまっすぐな瞳が私を捉える。
その目には涙すら滲んでいた。
私が、兄の訃報を聞いて駆けつけてきた妹なのだと信じて疑っていない、そういう目だった。

 

「ええ、お酒飲むとね。いっつも言ってたわ。二人には恨まれても仕方ない、俺は兄貴だったのに、二人を見捨てて出てきてしまったって……お父さんのことは、ずっと許せなかったみたいだけど、自分のことも、ずっと責めてたわ。そういうの、上手に誤魔化せる人じゃ、な、かった、から……」

 

最後の方は、嗚咽(おえつ)交じりになっていた。
この静かな会場では、しゃくりあげるようなその声は、とてもよく響く。
私がハンカチを差し出すと、香織さんは自分のがあるから大丈夫よ、ありがとうと言って、手提げ袋からハンカチを取り出す。
そのハンカチは、既にくしゃくしゃになっていた。
私は、戸惑っていた。
貴文兄さんが、ずっと私たちのことを覚えていたということ。それ自体が、私には驚くべき事実だ。

「……貴文兄さんは、私たちのことなんて、忘れていると思っていました」

素直にそう口に出すと、香織さんは鼻を啜(すす)りながら口を開く。

「そんなことないわ。きっと一日だって忘れたことなかったと思う。連絡しなかったのはね、きっと怖かったんだと思うわ。アヤカさんやヤスヒコくんに、責められたらどうしようって、それが怖くて……だから連絡できなかったのよ」
「そんな、私は恨んでなんて」

 

恨んでなどいない。忘れていた。
貴文という兄がいたこと自体を、ほとんどすっかり。
その方がひどいのではないか。
胸が少し重くなったような気がした。

 

「私もね、そう言ったのよ。きっと連絡を待ってるはずよって。タカくん、受話器を持つところまではいけたの。でもね、番号いくつか押したら、そこまでで……本当に辛そうで、私もそれ以来、強く言えなくなっちゃってね。ごめんなさい」
「いえ……香織さんに謝っていただくようなことじゃないですから」

 

頭を下げる香織さんに対して、私はそう言ったけれど、それは決して慰めるような気持ちからではなかった。
本当に、謝ってもらうことなどないと思ったのだ。
謝らなければいけないのは、ひょっとして、私の方なのではないだろうか。
胸の奥のほうで、ぬらつく澱(おり)のようなものが、どろどろとたゆたっているようだ。

 

「だからね、アヤカさんが来てくれて、私本当に嬉しいの。これでタカくんにちゃんと言えるわ。ほら、恨まれてなんてなかったでしょって。死ぬ前に一度でいいから、頑張って連絡しといたらよかったね、って……」

 

一度は止まった嗚咽が、また響く。
私は、もう一度ハンカチを差し出した。
大丈夫よ、と言って笑う香織さんに、

 

「使ってください。もう一枚、必要だと思います」

 

半ば押し付けるようにして、受け取ってもらう。
ありがとうと笑ってハンカチを握る香織さんに、私はどういたしましてとは言えなかった。
私にも必要だったのだ。なんでもいいから、この人の力になることが。
そうしてこの胸に凝(こご)ってしまっているぬらぬらとした澱を、少しでもいいから濾(こ)したかったのだ。
そんな安っぽいエゴに感謝してもらうことが申し訳なかった。

 

「平野様。住職様がお見えです」

 

唐突に、お座敷の外からそう声がかかる。
斎場の人だろう。きちんと礼服に身を包み、上から下まで隙がなかった。

 

「もうそんな時間なのね。お話に夢中になっちゃった。ごめんなさいね、アヤカさん。良ければ、式が終わったらまたお話しましょう。その時は、裕貴も一緒に」
「あ……すみません、新幹線の時間があるので、あんまり時間が」
「そう……そうよね、ごめんなさい。また今度、ゆっくりお話しましょうね。それじゃあね」

 

せめてタカくんに顔見せてあげてね、と残して、香織さんはお座敷を出て行った。
斎場の人と思しき男性も後に続く。
私は一人残されて、どうしていいか分からず、少し座ったままでいた。
香織さんからもらった写真に目を落とす。
ポロシャツの男性と、香織さんと、裕貴くんが映った写真。
貴文兄さんと家族の写真。
貴文兄さんは、怖い人だと思っていた。
あの恐ろしい父に逆らい、相馬の家を捨てて出て行った、怖い人だと。
『アヤ、あっちいってろ』と、私をのけ者にする怖い人だと。
それが事実だったとしたら……千葉に私たちを残したことを、悔やむような人ではないはずだ。
貴文兄さんが、いったいどんな人なのか、本当に何も知らないことが、ようやく分かった。
私は写真をカバンにしまうと、立ち上がり、お座敷を後にする。
パンプスを履き、正面の大きな開き戸から、式場に入る。
たくさんのパイプ椅子があった。
きれいに整列したパイプ椅子が向かう先には、白く横長の棺と、その奥に花祭壇(はなさいだん)がある。
祭壇の中央で、見知らぬ男性が笑っていた。
モノクロの、弾けるような笑顔を見せるその男性は、写真に映っていた男性と同じ顔をしている。
息子を肩に乗せて、幸せそうに笑っていたあの写真と、同じ顔だ。
棺の前には、列ができていた。
貴文兄さんの顔を一目見ようと言う人々が列を成している。
私は、その列を横目に見て、パイプ椅子の一番後ろの列の、一番出口から遠いところに座った。
ここに上座と下座があるとすれば、そこが最も下座に値すると思った。
私は、あの列を成している人々よりも、貴文兄さんを知らない。
この葬儀に来る誰よりも、私が一番、貴文兄さんのことを知らない。
香織さんに対する申し訳なさがなければ、今すぐにでもここを立ち去ってしまいたいとすら思った。
葬儀が始まるまでの時間、私はずっと貴文兄さんに微笑まれて過ごした。
貴文兄さんは、私をずっと覚えていたという。
お酒を飲む度に、私に対して謝っていたという。
私は、貴文兄さんが出て行ってから20年、まったくと言っていいほど貴文兄さんのことを思い出しもしなかった。

「……ごめんなさい」

 

小さく、零れた声は、貴文兄さんに届いただろうか。
届いて欲しいとも、届いて欲しくないとも思う。
貴文兄さんは、葬儀の間中もずっと、私に微笑み続けた。
香織さんが涙ながらに弔辞(ちょうじ)を述べた時も、私がお焼香を上げた時も、写真の貴文兄さんはずっと微笑んだままだった。
そして私は、葬儀が終わると、たくさんの人に囲まれる香織さんに一礼してから、逃げるように斎場を後にした。
胸の奥の凝った汚泥(おでい)は、ずんと重みを増していた。

 

 

*

 


4月に入って、康祐さんはまた仕事が忙しくなった。
新しい取引先ができたのだそうだ。大手商社と契約を結んだ。康祐さんの仕事のことにはまるで明るくない私でも、聞いたことのある名前だった。
前々からそうなるかもという展望は聞いていたけれど、ついに実現に漕ぎ着けたというわけだ。
さらに契約を取り付けた際に顔を覚えられて、その商社との取引はほとんど康祐さんを通すことになっていったらしい。
それがよくなかった。
康祐さんはすっかり忙しくなってしまって、休日でも会社に行くことが増えた。
ひどい時にはそのまま会社に泊まりこむこともある。
おかげさまで、私は家に一人でいることが多くなった。
せっかく用意した夕飯を、次の日も一人で食べた。
暇に飽かして、家中の整理整頓などしてしまう。
土日はいつも、康祐さんのお世話をするのが好きだった。
今週もお疲れ様、と言って過ごすだらだらとした休日が、私は本当に好きなのだ。
それができなくなって、一ヶ月が過ぎようとしていた。
だから、私は、

「あのね、康祐さん。私、今度の土日、千葉に帰ろうと思うの」

 

ある日、康祐さんが珍しく早く帰ってきた日、そう告げることにした。

 

「そうか」

 

康祐さんは、右手に持った何かの紙に目を通しながら、短く答える。
そして左手でビーフシチューをすくって、口に運んだ。
何度か咀嚼(そしゃく)して、ニンジンたっぷりのビーフシチューを嚥下(えんげ)し
てから、

「お義母さんに、何か言われたのかい?」

そこで紙をテーブルに置いて、こちらを見る。

「ううん、別に。でも、もうずっと顔見せに行ってないから、久しぶりにと思って」

 

私は、目を逸らして、意味もなくビーフシチューをかき回しながら答えた。
どろりとした濃厚なビーフシチューは、少し重い。康祐さんは、甘いものに限らず、濃い味付けを好む人だ。
今日は久しぶりに早く帰ってこれると聞いて、昨日から何時間もかけて煮込んだから、いつもより余計にこってりしていた。

「そうだね。年末からこっち、ずっと忙しかったからなぁ」

 

康祐さんはまた一口ビーフシチューをすくって口元に運び、

 

「ゴールデンウィークも、空きそうにないしな」

 

そう呟いてから、口に入れる。
私は目を伏せたまま、康祐さんの一挙一動をちらちらと盗み見る。

「……やっぱりダメそう?」
「ああ。先方がどうにも満足してくれなくてね」

 

康祐さんはまた紙に目を落としていた。
私も視線を追ってみると、紙にはよく分からない図やら何やらが描いてあり、そこに赤や緑で手書きの注釈が添えてある。

 

「これ以上どこを直していいやら。高木さんに聞いてみないとダメだな」

 

ため息混じりにこぼして、康祐さんはそれきり紙から目を離した。

 

「まぁ、そんなわけで俺は行けないが。文香だけでも顔を出して来るといいよ」
「うん……」

康祐さんがまっすぐこっちを見るので、私は余計に顔を上げられなくなってしまった。
仕方なくビーフシチューを食べることにする。
ニンジンをこれでもかというくらい入れて長時間煮込んだビーフシチューは、とても甘い。

「確か、お義母さんに渡したいものもあるんだろう?」

 

ちょうど飲み込もうとした時に康祐さんが口を開いたので、私は咳き込みそうになった。
んぐ、と変な音が出掛かって、なんとか押し込める。

「大丈夫か?」
「う、うん」

 

コップに入ったオレンジジュースを一気に飲み干して、シチューを胃に流し込んだ。
康祐さんは一瞬苦い顔をしてから、

 

「写真だったか? ……お兄さんの」
「……」

 

触れるかどうか迷いながらといった様子で、訊ねてきた。
先月香織さんから受け取った写真を、私はまだ母に届けていなかった。
手渡す機会がなかったというのもある。
しかしそんなことは、郵送でもなんでもすればどうとでもなった。
それをしなかったのは、ひとえに私があの写真を忘れてしまいたかったからだった。

「……結局、なにも思い出せないの」
「そうか」

 

主語も目的語も省略していたけれど、康祐さんはそれで分かってくれた。

 

「苦しいなら、早く手放してしまうといい。きっとその方がいい」
「……うん、そうする」

康祐さんが微笑んで言うので、私も笑顔を作って返す。
貴文兄さんの葬式から戻って一番に、私は康祐さんに事と次第を話した。
と言っても、最初に母から相談を受けた時、貴文兄さんの話はしてあったので、お葬式であったことについてだけだったけれど。
葬儀に参列する資格がなかったと嘆く私に、それでもお兄さんは喜んでくれていたはずだよと、康祐さんは言ってくれた。
それでもあれから一ヶ月、私は逃げに逃げ続けた。
母にメールだけで簡単な報告を済ませ、それ以降はその話題に触れないようにしていた。
貴文兄さんのことを何も思い出せず、この一ヶ月ずっと自分を責めていた。
幸か不幸か、康祐さんが忙しくなって、考える時間はたくさんあったので、貴文兄さんの思い出を探してもみた。
しかし記憶の中の貴文兄さんは、相変わらず『アヤ、あっちいってろ』と言うばかりだった。
やっと実家に帰る気になったのは、少し心の整理がついたからだ。

「ご飯、準備できないけど、ごめんね」
「いや……俺の方こそ、最近あまり一緒に食えなくてごめんな」

 

康祐さんは、自分がどんなにつらい時でも、私を助けようとしてくれる。
自分にできることをしようとしてくれる。
今日早く帰ってきてくれたのだって、その一環だろう。
少しでも長く一緒にいてくれようとしているのだ。

「ううん。土日までお仕事で大変なの、分かってるから。がんばってね」

 

だから、私はいつも、あと一歩のところで康祐さんに頼りきることができないでいた。
それを幸せと呼ぶのか不幸と呼ぶのか、私には分からないけれど。

 

「ああ、ありがとう」

 

それきり会話は途切れてしまった。
スプーンが皿に当たる音が、テレビの声に混じって聞こえる。
甘ったるく濃厚なビーフシチューを、少しだけ口に運んだ。
少しだけ。
私はいつも、口いっぱいに頬張って噛み締めることができない。

 

 

*

 


金曜日のうちに、私は身支度を整えて千葉に向かった。
康祐さんが、金曜から会社に泊まりこむことにしたからだ。
先月から悩まされている納期はもうほど近い。
この週末は、家には着替えと風呂に帰るだけかもしれないと、康祐さんは言っていた。
それは、最悪の場合まったく帰らないこともある、という意味だということを、この一月で私は学んだ。
やっぱりちゃんと家に帰ってきてくれるのは、私の事を気遣ってくれていたんだろうな。
実家に帰ることに決めてよかった。康祐さんの仕事の邪魔はしたくない。
実家の門の前で、私は深く息を吸って、吐く。
なんとなく、この家に帰る時は、いつもこうしてしまう。
確かにここは私の生まれ育った家で、何度もここから出かけたのだけれど。
小学校の頃、友達と遊ぶとなった時に、私が友達の家に行くことはあっても、友達が私の家に来ることは少なかった。
単純に遠いというのもある。学校までは1時間近くかかったし、最寄のバス停からも15分は歩く。
しかしそれよりも、私の家にはなんだか近寄りがたい雰囲気があるということを、友達の家に遊びに行くようになって思い知った。
こじんまりとした小さな家に、あまり広くないリビングがあり、子供部屋はもっと狭く、小学生といえど4人も詰めれば座る場所に困る。
友達が来たと聞いてジュースを持ってきてくれるお母さんがいて、部屋で騒いでいたら隣の部屋からお兄さんがやってきて、うるさいぞ静かにしろと怒鳴られる。けれど言い合っているうちに白熱して、ゲームで決着をつけることになって、いつの間にかどうして喧嘩になったのか忘れてしまっている……。
そんな普通の家庭に、どうしても溶け込みきれないまま過ごし、自分の家に帰ると、ここがどこか違う世界にあるような気がしてならなかった。
私が出来るだけ早く家を出たいと思うようになったのは、ちょうどその頃だ。
紫檀(したん)の門構えは、日の光を受けて重厚に艶(つや)めく。定期的に業者を呼んでメンテナンスをさせているから、何十年と経っていても新品のようだった。
敷地を囲うように巡らされた生け垣も、庭師を雇って毎日のように剪定(せんてい)させていて、軍隊の行進のように整然としていた。
その一分の隙もない完璧さが、見る者すべてに威圧感を与えているのだ。
厳(おごそ)かという表現がとてもよく似合う。ここは私の家ではなく、父の家だった。
門扉(もんぴ)に手をかける。少し力を入れると、紫檀の門扉はほとんど音も立てずに内側へと流れていった。
門に縁取られた向こうに、開けた庭が見える。
いくつか植わっている立派な庭木と、その向こうに平屋がある。
一つ門を潜れば、そこは父の領域だ。あの深呼吸は、覚悟を決めたのかも知れないと思う。
ここから先には、私の居場所がない気がするから。
意を決して敷居を超えると、

「おや? これはお嬢さん、お帰りなさい」

 

庭木の影から、佐藤さんが顔を出した。脚立の最上段に腰掛けて、庭木の剪定をしているようだ。
高いところから失礼します、と言って頭を下げる佐藤さんに、私は軽く会釈(えしゃく)をしてただいまと返した。

「お久しぶりです。お変わりないですか?」
「ええ、おかげさまで。こんな年になっても毎日お仕事いただいて、だんな様には頭が上がりませんよ」

佐藤さんは、私が生まれる前からずっとこの家で庭師をしているらしい。
母が嫁いだ時にはすでにいたというから、その年季は相当なものだ。

「お体気をつけてくださいね。あまり無理をなさらずに……」

 

確か、もう70を超えていたように思う。
本来なら働くような年齢ではない。

 

「かっかっか、あんまり年寄り扱いせんでくだされ。まだまだ若いもんには負けませんよ」

 

佐藤さんはからからと笑って、

 

「どうしたんです、今日は? あの坊やに愛想が尽きでもしましたかね?」

 

そう続けると、少し意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「そんなこと……康祐さんはよくしてくださってます。私こそ力になれることが少なくて、愛想をつかされないか気が気じゃないです」
「かかか。果報モンですなぁ。でもね、嫌になったらいつでも戻って来てくださいよ。わしゃいつだってお嬢さんの味方ですからね。お嬢さんのためなら、手塩にかけたこの百日紅(さるすべり)だって惜しくないですから」

愛おしそうに庭木の葉をいじりながら、佐藤さんはそう言ってくれた。
私が家を出たくて、よその高校を受けようとした時、父はなぜ自分の言う通りにしないのかと私をひどく叱った。
その時私の味方をしてくれたのが、佐藤さんだ。
お嬢さんにはお嬢さんの人生がある、と言って、雇い主である父に歯向かってくれた。
仕事を失う恐れもあっただろう。百日紅を失っても、と言うのは、この人にとっては決して見栄でも誇張でもないのだ。
……そういえば、あの時、佐藤さんが何かを言って、それで父が黙ってしまったのだった。
確か、そう……。『だんな様がそんなだから、坊ちゃんも出て行かれたのではないですか』と。
あの時は気づかなかったけれど、ひょっとしてその坊ちゃんというのは、貴文兄さんのことなのではないだろうか。

「あの……佐藤さんは、貴文兄さんのこと、ご存知ですよね?」

 

思い切って訊いてみることにした。

 

「タカ坊ちゃんですか? ええ、よく存じてますよ。わしがこうして脚立に座っているとね、下から声をかけてくだすったんです。『見てくれじいさん、カブトムシ捕まえたぞ』ってね。そりゃあもう大きなカブトムシでねぇ。わしが『こいつは“わーるどくらす”ですな』なんて言ったら、鼻高々で。すぐにだんな様にも見せに行きましたよ」

佐藤さんは遠いところを見つめながら、口元に笑みを称えて、思い出話をしてくれた。
そして私に向き直ると、

 

「亡くなったんですってね。惜しい人を亡くしました……。だんな様はお葬式にも出なかったとか。年をとって少しは丸くなったかと思えば、タカ坊ちゃんのこととなるとまるっきり昔に戻ってしまいますなぁ」

そう言って、少し肩を落とした。
私は葬式と聞いて、胃に少し重たいものを感じたけれど、この重さを晴らすためにも、聞かなくてはいけない。

「あの……貴文兄さんは、どうして出て行ってしまったんですか?」

 

私がそう口にすると、佐藤さんは少し驚いた表情をしてから、脚立を降りながら、語り始めた。

「お嬢さんはご存知ないですよねぇ。あの時は小さくてらっしゃったから。タカ坊ちゃんはね、ここだけの話、今の奥様の子じゃないんですよ。だんな様が若い頃に、はずみのように結婚なさってね。その時にはもうタカ坊ちゃんがお腹の中にいたんです」

地に足を着けると、曲がった腰に手を当てて、私と向かい合った。
腹違いだというのは、もう知っていた。しかしその後に続いた言葉は、私にとっては寝耳に水だった。

 

「……できちゃった結婚だったんですか?」

 

驚いて思わず口にすると、佐藤さんは声を出して笑う。

「かっかっか。できちゃった、ですか。最近はそう言うんですか? わしの若い頃は、“授かり婚”とか、“既成事実婚”なんて言いましたがね」

 

ひとしきり笑ってから、佐藤さんは私に背を向けつつ、

 

「ま、立ち話もなんです。縁側にでも座って、茶でも飲みながらゆっくり話しましょうや。奥様もお呼びしますから」

 

そう言って、先に歩き出した。
私が黙ってついていこうとすると、やおら立ち止まって振り返り、

 

「ただし、だんな様にお顔を見せてからいらっしゃい。わしは休憩がてら、準備しておきますでな」

意地悪そうに笑った。

 

 

 


*

 


父は社長を辞して以来、出かける時と食事をとる時以外は、決まって書斎にいる。
私にはよく分からないが、この町の歴史などを調べているようだ。
毎日毎日飽きもせず、とは母の言だけれど、そんなことを調べてどうするのだろうとは、私も思う。
市長選に立候補するのだとか、噂だけはあるけれど、本人にその気があるのかは分からない。
けれどその一環なのだと言われれば、さもありなんと言った感じだ。
書斎の襖(ふすま)に手を伸ばして、手をかけられずに、私は一度その手を戻した。
入る前に声をかけるべきだ、と思ったからではない。ただ単に躊躇(ちゅうちょ)したからだ。
足元の床板が、きし、と少しだけ音を立てた。
父に会う時は、この家の敷居をまたぐ時よりも緊張する。
この緊張の根源は、この襖の向こうにいる。
康祐さんの顔を思い浮かべる。
私の頭の中の康祐さんは、いつもと変わらない笑顔で「がんばれ」と言ってくれた。
一つ息を吸って、お腹に力を入れて、声を出す。
こうしないと、声が上ずってしまいそうだった。

「お父さん。文香です。少しいいですか?」
「入れ」

 

短く、太く、暦年の大樹の幹を思わせるその声に、私はもう一度気合を入れなおす必要があった。
襖に手をかけて、思い切って開く。
父は、書斎の文机(ふづくえ)に向かっていた。黒い縁取りの眼鏡をかけ、老緑(おいみどり)色の単衣(ひとえ)に身を包んでいる。
文机に、分厚いハードカバーの本が開かれているのが見える。いったい何ページあるのだろう。
私は部屋に入ると、後ろ手に襖を閉め、畳に正座した。

「よく帰ったな」

 

本から目を離さずに、声だけで父は私を迎えた。

 

「ただいま……なかなか戻ってこれなくてすみません」

 

その父の横顔を、うつむき加減に見て、私は頭を下げる。

 

「便りがないのがよい便りとも言う。泣きついて来ないなら、それなりにやっているということだろう」
「……康祐さんがよろしく伝えてくれと言っていました。仕事が忙しく、同伴できなくてすみませんって」

 

顔を上げると、父の辞令には答えず、康祐さんからの言伝を口にする。

 

「……康祐くんは元気かね」

 

そこで初めて、父はこちらをちらりと横目で見た。
なんだか咎められているような気がして、少し息が詰まる。

 

「はい……最近は本当に忙しくて、会社に泊まりこむこともありますけど。かえってやり甲斐があると言って張り切ってます……この週末も、康祐さんが仕事の追い込みで、泊り込むと言ったので。こうして帰って来ました」
「そうか。精力的なのはいいことだ。若い者はそうでなくてはいかん」

 

そう言って一つ頷くと、父はまた、ふいと本のページに目を落とす。
私は軽く息をついた。

 

「何日いられるんだ」

 

ちょうどそのタイミングで、父が口を開いたので、見透かされていやしないかと、肝が冷えた思いをした。

 

「明日一日はいられます。日曜は、午後には戻りたいと思います。康祐さんも、日曜には一度帰ってくると思うので」

 

早口にならなかっただろうか。たぶん、大丈夫だと思うけれど。
声は少し震えたかもしれない。

 

「そうか。……ゆっくりしていきなさい」
「はい、ありがとうございます……それじゃあ、失礼します」

 

父の背中に頭を下げてから、できるだけ静かに立ち上がり、書斎を後にする。
廊下に出て、音の立たないように注意を払いながら襖を閉めると、きしきし鳴る床板を心の中で非難しながら、書斎を離れた。
廊下の角を曲がったところで、大きく息をつく。
全身に入っていた力がすっと抜けるのが分かった。

 

「何も言われなくてよかったぁ」

 

私が大学に入ったくらいの頃から、父はあまりガミガミ言わなくなった。
今日だってそうだ。私が不精を謝ると、フォローするようなことを言ってくれた。
きっともう、子供の頃のように手ひどく叱られることはないのだろう。
それでも私はまだ、父の一挙手一投足が気になって仕方がない。
たぶん、私が勝手に私を縛っているのだ。
昔の強い印象を、今の姿にどうしても重ねてしまっている。
この家になかなか帰る気にならないのも、私が一人で遠ざけているだけで……。

 

「薄情、なのかな」

 

いつの間にこんなに逃げるのが上手になってしまったのだろう。
私は一つ頭を振って余計なことを追い出すと、佐藤さんの待つ縁側へ向かった。

 


*

 


客間の縁側では、母と佐藤さんがおはぎを片手に談笑していた。
客間の座卓に座っている母に対して、佐藤さんは縁側に腰かけて、足を投げ出している。

 

「母さん、ただいま」

 

私は母に声をかけつつ、母の正面に腰を下ろした。

 

「あら文香、おかえり。おはぎあるわよ、食べなさいな」

 

母はこちらに向き直ると、おはぎの乗ったお皿を私に差し出した。
私はありがとうと言っておはぎを一つ手に取り、

 

「何の話してたの?」

 

と一つ質問してから、おはぎに一口かじりついた。
小豆の層と中にくるまれたお米が、白と黒のコントラストを描いていた。
餡子の濃密な甘さが口いっぱいに広がる。

 

「何ってあんた、貴文くんの話よ。あんたが聞いたんでしょう?」

 

おはぎを咀嚼するあごが止まる。

 

「どんな話、してたの?」

 

ゆっくりと顔を向けると、母はお茶を啜っていた。

 

「ちょっと待ってなさいな、お茶淹れてくるから。あんたの分」

 

そう言って湯飲みを座卓に置くと、立ち上がって客間を後にする。

 

「今はちょうど、タカ坊ちゃんが小学校に上がった頃のことですよ」

 

席を離れた母に代わって、佐藤さんが教えてくれた。

 

「坊ちゃんはね、その当時近所のガキ大将みたいな感じでね。放課後は日が暮れるまで帰ってきやしないし、休みは一目散にどっかに出かけちゃうしで、ぜんぜん家にいなかったんですよ」
「そうなんですか」

 

カブトムシといい、ガキ大将といい、貴文兄さんはずいぶんと活発な少年だったようだ。
私の脳裏に思い浮かんだのは、香織さんから受け取って、今は私のカバンに入っている、あの写真の少年だった。
Tシャツに短パンの、裕貴という少年。
あの見るからに快活そうな少年は、それでは父親似だったのだろうか。
そういえば、香織さんも言っていた気がする。元気なのが取り柄だと。
香織さんのことを思い出したら、また少し胃が重くなって、私は半分も食べていないおはぎをじっと見つめるだけになってしまった。
すると、突然視界ににゅっと腕が伸びてきた。

 

「なによあんた、おはぎと見つめ合っちゃって。何か入ってた?」

 

母だった。私の前に湯飲みと小さなお皿を置いて、それから座卓を回り込んで私の正面に座る。

 

「ううん、なんでも。ちょっと私には甘すぎるかな、これ」

 

私は母が置いてくれたお皿におはぎを置くと、座卓の上にあったティッシュで指をぬぐう。

 

「……どうしちゃったの、あんた甘いもの大好きだったでしょ」
「そうですよ。お嬢さんがおはぎ食べ残すなんて。調子でも悪いんですか? だんな様にこってり絞られました?」

 

母が座卓に身を乗り出して私に詰め寄り、佐藤さんも信じられないものを見るような目でこちらを見てくる。

 

「失礼な……私だって甘いもの食べたくない気分の時くらいあるわよ」

 

そりゃあ、お茶じゃなくてオレンジジュースが欲しいとは、ちょっと思ったけれど。

 

「ははあ、やっぱりだんな様に叱られましたか。だんな様もまだまだお元気でいらっしゃる」
「元気も元気よ。毎日毎日書斎にこもってるけどね、中でトレーニングでもしてるんじゃないかしらね。もう還暦だって言うのにちっとも弱る様子がないんだから」

佐藤さんの言葉を拾いながら、母はお皿のおはぎに手を伸ばした。
一つとって頬張りつつ、

「……でもヘンねぇ。怒鳴り声なんてぜんぜん聞こえなかったわよ。さっきウグイスの鳴き声が聞こえたくらいだもの」

と中空に視線を投げ、首をかしげる。

「だから、そんなんじゃないんだってば。それより貴文兄さんの話、してたんでしょ?」

私は指をぬぐい終わったティッシュをゴミ箱に放って、母に先を促した。

「ああ、そうそう、さっきどこまでいったかしら?」

母はそれで気を逸らしてくれた。

「坊ちゃんの小学校の時の話ですよ。ほら、酒屋のたっちゃんを泣かした時の話です」
「そうそう! そうだったわね。あの時はひどかったわねぇ~、三針だっけ、縫ったの」
「ええ、三針です。怪我した場所が場所でしたからねぇ。坊ちゃんもまさか、キャッチャーマスクの上から縫う怪我負わすとは思ってなかったでしょうねぇ」
「やんちゃだったわよねぇ。私もどこまで叱っていいか分からなくてねぇ、確かあの時は文彦さんが蔵に閉じ込めたのよね」
「そうですよ。三日三晩です。学校にもやらないで、食事は一日一度でいいと仰って。あの時はさすがの坊ちゃんも堪(こた)えてましたねぇ」

母はおはぎを食べながら、佐藤さんはお茶を飲みながら、賑やかに談笑する。
私はへぇ、とか、そうなんだ、とか相槌を打ちながら、まったく話に入れずにいた。
貴文兄さんのイメージが、やんちゃ坊主に固まっていく。いたずらそうに笑うそのイメージは、すっかり裕貴くんの姿になってしまった。
再度裕貴くんの姿を思い描いたところで、私ははたと写真のことを思い出した。

「そうだ、忘れるところだった」

私は座布団脇に置いたままだった鞄の中から写真を取り出すと、

「母さん、これ。香織さんからもらった写真」

その写真を母に差し出した。

「あら、これ貴文くん? やだ~、すっかり立派になっちゃって! この肩に乗ってるのは息子ね! もーちっちゃい時の貴文くんそっくり! ほら佐藤さん。見てこれ、笑っちゃう」
「おやまあ、ほんとですねぇ。こっちのタカ坊ちゃんよりよっぽどタカ坊ちゃんだ」

母は写真を見てひとしきり笑うと、身を乗り出し、腕を伸ばして縁側の佐藤さんに写真を見せる。
佐藤さんは首を伸ばしてそれを見た。

「それじゃ、この女の子が香織さんなの?」

姿勢を戻した母が、写真を指差して質問する。

「うん。ちょっと話したけど、いい人だったよ」

こっちが申し訳ないと思うくらいに。と頭の中だけで続ける。

「そうよねぇ、私も電話でしか話したことないけど、いい子だったもの。可愛い子じゃないの。貴文くん、いい子捕まえたわね~」

母は頬に手を当てて嘆息した。
貴文兄さんのことを語る母は、なんだか近所の子供に対する気さくなおばさんのようだった。
この間お葬式の電話をかけてきた時には、バツが悪そうな様子だったのにな。
この一ヶ月で、思い出にしてしまったということだろうか。確かに貴文兄さんはもう、二度とこの家に帰ってくることはないし、二度と母の前に現れることもないのだ。
それでなくとも、20年も前にことなのだし……。
そうだ。私も自分で言ったのではないか。20年も昔のことだ。思い出にしてしまっても、それは当然のことだろう。
すべてを忘れてしまっても。

「さて、それじゃわしはそろそろ仕事に戻りますかね。奥様、お茶ありがとうございました」
「あら、もうそんな時間なのね。お粗末さま」

佐藤さんが湯飲みを置いて、立ち上がろうとする。
そういえば、私が話を聞きたいと言って仕事を中断させていたのだった。
佐藤さんには悪いことをした。

「わざわざお話聞かせてもらって、ありがとうございました」

私がそう言って軽く頭を下げると、佐藤さんは軽く振り返ってから、

「いえいえ、爺の思い出話でよければまたいくらでも。わしも懐かしい話が出来て楽しかったですよ」

それじゃ、と、麦わら帽子をかぶりながら、歯を見せて笑った。
佐藤さんが縁側を去ったので、私は佐藤さんの湯飲みを片付けようと席を立った。
座卓に残った半分だけのおはぎを、どうしようかと少し迷って、けれどやっぱり空いた手に持つ。
ラップでもかけて冷蔵庫にしまっておけば、また後で食べられるだろう。

「そうだ文香、あんたにちょっと頼みたいことがあるのよ」
「え?」

台所に向かおうと思ったところで、母に声をかけられた。
私が母に顔を向けると、母は写真を座卓に置いてから立ち上がって、おはぎのお皿を持って先に客間を出て行った。
そのまますぐに正面の台所に入っていく。

「なに? 頼みたいことって」

私も後を追いかけて、シンクに湯飲みを置きながらそう問いかけた。

「ストーブをね、仕舞って欲しいのよ。もう冬まで使わないと思うから」

母は棚からタッパーを取り出し、菜ばしであまったおはぎを詰めていく。

「ストーブ? まだ出してたの? もう五月じゃない。あれ、お母さん、ラップどこ?」

私は棚を開けてラップを探してみたが、アルミホイルやジップロックばかりで、ラップが見当たらない。

「だって最近暑かったり寒かったりすごいじゃない。先月あったかくなったなぁと思って仕舞ったら、急に寒くなってね? また寒くなったら嫌だから、しばらく出しといたのよ。ラップ? そこに入ってない? ……ああ、ここにあったわ。はいこれ」

どうやら前に使った時に出しっぱなしになっていたようだ。振り返ると、母がテーブルに手を伸ばしてラップを手渡してくれた。

「ありがと」

私はラップを受け取って、おはぎをお皿ごとラップで包む。

「でもね、もう夏も近いでしょ? さすがに今年はもう使わないと思うから、そろそろ仕舞わなきゃと思ってたのよ。ちょうどよかったわ、あんたが帰ってきてくれて。最近重いもの持つと腰が痛くって」
「母さんも年ね。分かった。物置でいいの?」

冷蔵庫を開けて、食べかけのおはぎを上の段に仕舞う。

「ええ、そこでいいから仕舞っておいて。
 あ、開けといて。もう終わるから……はいこれ、真ん中に入れて」

冷蔵庫のドアを閉めようとしたら、母にとめられた。
手渡されたおはぎの入ったタッパーを、広く空いているところに置く。
改めて冷蔵庫のドアを閉め、

「それで、そのストーブはどこにあるの?」

と母に尋ねる。

「どこって、そこにあるじゃないの」

母は菜ばしをシンクに置いてから、テーブルの横をあごで指す。
そこにはシルバーの石油ファンヒーターが置かれていた。
……本当だ。ぜんぜん気づかなかった。
私は自分で思っているよりずっと視野が狭いのかもしれない。
ヒーターはところどころ塗装が剥げて、下地の金属が見えてしまっていた。
私はヒーターを持ち上げると、

 

「これ、ずいぶん昔からあるよね。何年くらい使ってるの?」

そう母に尋ねつつ、物置へと向かう。

「そうねぇ……あんたが生まれた後に買って……20年? もうちょっとかしらね」
「20年!? うわぁ、すごい年季モノだね。ぜんぜん知らなかった」

廊下に出て、角を二つ曲がると、昔子供部屋だった一角がある。
今は誰も住んでいない。貴文兄さんが出て行ってしまって、私が一人暮らしを始めて、康彦兄さんがお嫁さんと二人で住み始めたからだ。
かつて貴文兄さんの部屋だった場所は、もうずっと前から物置になってしまっていた。

「あら、あんた覚えてないの? 買ったばっかの頃、あんたこれで火傷したじゃないの。ほら、腰んとこにあるでしょ」
「ああ、そういえば……こいつのせいだったのね」

私の左の腰の後ろに、とても小さな火傷の痕がある。明るいところでじっくり見ないと分からない程度だけれど、触ってみるとちょっと引っかかる。
あまり気にしていなかったけれど、そんな小さな時の傷だったんだ。

「そうそう、あの時の貴文くんったら凄い剣幕だったわよねぇ。あんたがぎゃーぎゃー泣き喚くもんだから、貴文くんすっごい慌てちゃってね。私に『かあちゃん、アヤが! アヤが!!』って。私は文香がどうしたのよって訊くんだけど、アヤがアヤがってそれしか言わないの」
「……そうなの? ぜんぜん覚えてない」

母が物置のドアを開けてくれたので、私は中に入ってストーブを置いた。
私もあまり重労働をするタイプではないので、腰を軽くとんとんとたたく。

「ほんとに何も覚えてないのねぇ。あんた病院でもぜんぜん泣きやまなくて大変だったのよ。貴文くんが必死になだめてくれてたんだから」
「ふーん……」

貴文兄さんのイメージが、どんどん変わっていく。
最初に私が持っていたイメージは、なんだったのだろう。
『アヤ、あっちいってろ』と言う兄の怖い印象は、まだ残っていた。
だからこそ、分からない。みんなの言う貴文兄さんと、私の記憶にこびりつく貴文兄さんは、どうにも違っていた。
私は貴文兄さんに嫌われていたのだろうか?
母が先に物置を出て、ドアに手をかけて振り返る。
私が後に続くと、私の後ろで母がドアを閉めた。
私は客間に向かって歩き出そうとして足を上げて、

「でも貴文くんが凄かったのはね、その後よその後。あんたがストーブに近づくと、あっちいってろ!って怒鳴ってね。私も気をつけてたけど、貴文くんは徹底してたわよ。あんたそれ怖がってびーびー泣いてたのよ」
「えっ――」

――“あっちいってろ”?
私は、歩き出そうとした足を戻して、母を振り返った。

「それ、覚えてる」

それだけは、覚えている。

「なんだ、覚えてるじゃないの。それからよねぇ、あんたが貴文くんに近づかなくなったの。康彦は相変わらずなついてたけどね」

母は私を追い越して先に行ってしまう。
私は慌てて後を追った。

「じゃあ、貴文兄さんが怒ったのって、私がヤケドしたから?」
「そうよ。あんたがあんまり怖がるもんだから、貴文くん落ち込んじゃってね。嫌われちゃったなって言ってたわよぉ。あんた今度お線香あげて謝ってきなさいよ」

そういって母はからからと笑う。
冗談のつもりなのだろう。

「……うん、そうする」

しかし私は、とても冗談で済ませる気にはなれなかった。
貴文兄さんは、やっぱり怖い人ではなかったのだ。
私が二度と火傷しないように、私にきつく当たっただけだった。
幼い私はそれが分からず、貴文兄さんを怖く思い、それがずっと、この年になってもずっと、悪い印象としてこびりついてしまっていたのだ。
パズルのピースがすべてはまった気分だった。


「あら、風かしら」

客間の入り口で、母がしゃがんで何かを拾った。
あの写真だった。そういえば座卓の上に置きっぱなしにしていた。
風で飛んだのだろう。

「あら? これ裏に何か書いてあるわよ」
「え?」

言われて母の肩越しに覗き込む。

「ほんとだ。……平野貴子? って、これ」

写真の裏には、平野貴子と言う名と、電話番号。
それから、“お電話待ってます。香織”と、短い文が書かれていた。

「……そう、貴子さんの。一緒に住んでるのね」

母は遠い目をしてそれを眺めて、

「あんた気づかなかったの?」

とこちらに責めるような目を向けてきた。

「ぜんぜん……」

お葬式から帰ってきてすぐに、私は写真を引き出しの奥に仕舞いこんでしまった。
それから一ヶ月、その引き出しには触れないようにしてきたから、裏なんて見ようとも思わなかったのだ。

「電話入れなきゃね。お葬式出れなかったお詫びをしなくっちゃ。今日はいるかしらね」

母がそういって、番号を確認しながら電話に歩み寄る。

「母さん、私が電話する」

その背中に私は声をかける。

「あらそう? 珍しいわね、積極的じゃない」
「うん、ちょっと……ね」

母の差し出した写真を受け取って、私は受話器を手にとる。
番号をダイヤルしながら、私はもう一度貴文兄さんのことを思い出した。
カブトムシを佐藤さんに見せたという。近所のガキ大将で、遅くまで家に帰らなかったという。酒屋のたっちゃんを、針で縫う怪我を負わせて泣かせて、三日三晩、二食を抜く折檻(せっかん)を受けたという。そして私がストーブで火傷したのを受けて、私に怒鳴ったという。
香織さんに話したいことが、たくさんあった。
受話器の奥で、コールする音が聞こえる。
私は写真を裏返した。
貴文兄さんと、裕貴くんと、香織さんが笑っている。
三人とも一様に幸せそうな笑顔を浮かべていた。
写真を渡された時の香織さんを思い出す。よく笑い、よく泣く人だった。
そういえば、ハンカチも渡したままだ。
別段返して欲しいというわけではない。でも、それを口実に、今度お茶にでも誘えばいいかもしれない。
私の知らない貴文兄さんの話を、聞かせて欲しい。
コールが途切れて、受話器の向こうで、はい平野ですと、声がした。
私は一つ息を吸って、話しかける。

「あの、平野香織さんのお宅でしょうか?」

胸の奥に、すっと晴れ渡ったような清清しさがある。
あれから一ヶ月。それだけの間この奥で凝っていた鈍いものは、どこかへ流れていってしまったようだ。
私の中にあった貴文兄さんの記憶。
それは決して重いものではなかった。辛いものでも苦しいものでもなかった。
少し不器用なだけの、やさしい人の思い出だったのだ。

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odi et amo, quare id faciam, fortasse requiris, nescio, sed fieri sentio et excrucior.

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