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辿り着けない戦場

「映画」「療養」「クッション」というお題で書いた作品です。

まず第一に、この作品において映画『麗しのサブリナ』から台詞を数点引用させていただきました。

Wikipediaの該当ページを掲載しますが、ネタバレに値するものが大量に記載されています。もし未見で気になった方は、なんらかの方法でご自分でご覧になることをおすすめします。

『Hello! How are you?』

「Hello! How are you?』

 

 液晶の中でヘプバーンが口にした言葉を、里香は繰り返す。言葉だけではない。彼女の目や眉の動き、口の端の角度、指先のしなり具合に至るまで、そのすべてを模倣しようとしていた。

 

『Who am I?』

「Who am I?」

 

 上半身を忙しなく動かして、真似を続ける。里香は白黒の画面の中に描かれるすべてを自分の内に取り入れようとしていた。里香は今、里香ではなく、ヘプバーンになろうとしていた。

 

『No,you're supposed to know.』

「No,you're supposed to know.」

 

 里香が腕を開いた拍子に、里香の抱えていたクッションが彼女の胸を離れた。寄辺(よるべ)を失ったクッションは自重を支えきれず、床との接点を中心にゆったりとした動作でカーペットへと漂着する。

 クッションがすっかり倒れ込んでしまうのと、智衛(ともえ)がコンロの火を止めるのが、ほとんど同時だった。

 智衛はフライパンの中で香ばしく焼き上がった焼きそばを、トングで二枚の皿に振り分けた。三人前の分量で、だいたい半分。男女の違いがあっても二人の食べる量はほとんど一緒だった。

 白い湯気をあげる皿を両手に持ち、智衛はキッチンを後にした。キッチンの目と鼻の先にあるテーブルに皿を並べ、カウンター越しに箸(はし)とコップを洗いカゴから取り出す。それらを皿の脇に並べると、キッチンに戻って冷蔵庫からミネラルウォーターと緑茶を手に取り、リビングへと取って返した。

 

「里香、夕飯できたよ」

 

 飲み物の用意が済んで、智衛はそう声をかけたが、里香は画面に夢中で耳を貸さない。本当に聞こえてないのだろうということは、彼女と付き合いの長い智衛にはすぐに予想がついた。一つ鼻から息をついて、テレビにかじりつかんばかりの里香に近づく。

 

『You'll be alright in a minute.』

「You'll be alright in a minute.」

「里香、ご飯だってば」

 

 ヘプバーンになりきっている里香の肩を、智衛は軽く叩いた。ほんの少しの衝撃だったはずだが、里香はまるで電撃を受けたように大きく背中をのけ反らせると、脇に置いてあったリモコンに電光石火の勢いで手を伸ばして一時停止のボタンを押した。そうしてぎっと智衛を睨(にら)む。

 

「邪魔しないでよ! せっかく今いいところだったのに!」

 

 里香は眉を吊り上げていた。

 

「ごめん、でも焼きそば冷めちゃうぞ」

「…………」

 

 智衛が殊勝(しゅしょう)に謝ったので、里香はそれ以上彼に怒りをぶつけることができなくなった。唇を噛みしめて下を向いてしまった里香に、智衛はもう一度声をかける。

 

「ほら、食べよう。な?」

「…………っ」

 

 智衛の差し出した手を、里香は見もせずにとった。そうして左足に反動をつけて、一息に立ち上がる。直立すると、もう必要ないとばかりに智衛の手を放り出した。

 心配そうに眉根を寄せる智衛の視線を背中に受けながら、里香は右足に一切の力を入れず、テーブルへと歩み寄った。テーブルに手をついて椅子を引くと、半ば体を投げるようにして座ったので、安物の木椅子は不満げな声を上げた。

 智衛はその一連の動作をすぐ傍で眺め、里香が座ったのを確認すると、自分はその向かいに腰を下ろした。

 いただきますと手を合わせて智衛が焼きそばを食べ始めると、里香も小さな、しかしはっきりとした声であいさつをして、焼きそばに手を付けた。智衛はほっとした表情になって、話しかける。

 

「また見てるんだな、『麗しのサブリナ』。もう何回目だ?」

「数えてない」

「俺も覚えちゃったよ、なんだっけ? なんとか男爵の台詞」

「フォントネル男爵よ」

「そうそう、フォントネルだ。『A woman happily in love,she burns the souffle.』ってやつ。『幸せな恋をしている女性はスフレを焦がす』、おしゃれだよなぁ」

「……」

「その後に続くのがまた……英語は忘れちゃったけど、『不幸な恋をしているとオーブンのスイッチを入れ忘れる』だったよな。サブリナが叶わない恋をしているのを見抜いた老紳士、俺好きだなぁ」

「…………」

 

 調子よく舌を回す智衛に対して、里香は寡黙(かもく)だった。親の仇のように焼きそばを頬張る。その視線は、ずっと止まったままのヘプバーンを射抜いていた。智衛は里香が自分の話をちっとも聞いていないのが分かって、口を閉じた。

 二人の間に沈黙が流れ、リビングには箸が食器をひっかく音だけが響く。智衛の芳(かんば)しくない箸運びをまるで補うようにして、里香の箸は忙しなく皿を叩いた。

 

「……あまり根詰めるなよ。怪我はお前のせいじゃないんだからさ」

 

 智衛がそう口にした瞬間、里香の箸はぴたりと動きを止めた。重い空気に引きずられるようにして、里香の手はストンと落ちる。その指は箸を掴まえてはおかず、まだ半分ほど残った焼きそばの上に、投げ出された箸が躍った。

 

「やっと手にした主役なのよ!? こんな怪我さっさと治して私が演(や)るの! 『お吉』は私よ、誰にも渡さない……!」

 

 里香は両の拳を強く握り、固く固く目を閉じた。その眦(まなじり)から溢れた雫が玉となっているのを、智衛は見ないふりをした。

 

「大丈夫、里香なら次も主役とれるよ。焦る気持ちも分かるけど、無理だけはするなよ。悪化したら復帰が遠のくぞ」

「…………」

 

 里香は一言も発さず、肩を震わせた。震えは腕に伝わり、拳に伝わり、テーブルを、皿を、箸を震わせる。カタカタと鳴る食器の中で焼きそばが箸を絡めとる。震動によってそれは少しずつ、少しずつ傾きを強め、麺を貫き箸先を高めていく。やがて細動の高まりが頂点に達し、皿の外縁を支点に持ち手がテーブルを叩き、その勢いのままに箸先がぐいと天を衝く。その鋭利な尖塔(せんとう)が、空から落ちて来た露を弾き散らした。

 

「…………」

 

 智衛は、声もなく涙を流す里香の手をそっと握った。それ以上の言葉も、行いも、智衛にはできないと思えた。涙を流したいのであれば、胸を貸すこともできた。しかし決して涙を流すまいとしている里香に、胸中を支配しているであろう悔悟(かいご)を、必死に自らのうちに押しとどめようとする里香に、智衛ができることは他になかった。

 テレビの画面では、止まったままの車のフロントガラス越しに、白黒の装いのヘプバーンが静かに笑っていた。

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odi et amo, quare id faciam, fortasse requiris, nescio, sed fieri sentio et excrucior.

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