束縛の鶴翼
「戦」「百合」「螺旋」という三つのお題で書いたお話です。
戦国時代はかなり好きな時代でして、とても楽しく書けました。文末に用語解説を置いてあるので、理解の足しにしてみてください。
鶴は弓に矢を番(つが)えた。胸の底まで息を吐いて、的を見据える。細く大きく息を吸い込みながら、弓を引く。弦が過剰に引き絞られ、キリリと鋭利な音を発した。鶴は三本の指で力強く、矢羽をつかんで離さない。瞳の先をただ一点、的の中央へと向けて、鶴は呼吸を止めた。
自分を切り捨てていく。視野を狭めていく。考えるのはあの藁束を、その真っ芯を射抜くことのみ。自らの肉体すら弓とし矢としそして弦として、意識のすべてをその一点に。鳥の声も風の音も視界を横切る木の葉にさえも、鶴の耳目(じもく)は一切の興味を失っているようだった。
屋敷の庭に静寂が流れる。そこに人がいないかのような静けさの中で、鶴はなんの衒(てら)いもなく、右の指を離した。矢が放たれる。弦がうなる。反動を受けた弓がぐるりと回る。そのすべての動作に一つの意識も払わず、鶴の視線はひたすらに的を睨んでいた。
矢の突き刺さる音と、垣根の戸が開かれるのが、ほとんど同時だった。
「鶴。またこのようなところにおるのか」
「……兄上、お戻りだったのですか」
垣根を超えて現れた辰之助に、鶴は目もくれなかった。はだけた肩衣(かたぎぬ)もそのままに射(しゃ)を続ける。
「その恰好はなんだ。まるで男(おのこ)のようではないか。ご丁寧に晒(さらし)まで巻きおって。戦に出たいなどと、まさかまだ言うておるのではなかろうな」
辰之助の小言を横顔に受けながら、鶴は次の矢を番えた。
「申しております。刀も弓も、槍働きに於(お)いて鶴の右に出るものはおりませぬ。兄上とて私(わたくし)に勝てたことなど、一度もないではないですか」
「五年も前の話だ、今なら負けるものか。よしんば俺に勝てたとしても、それで戦に出られるものではない。そなたもそのようなことはとうに分かっておるだろう」
「分かりませぬ」
「鶴!」
鶴は弓を引いた。息を止めて的を見据える。その視線のあまりのひたむきさに、辰之助は息を呑んだ。鶴の弓の冴えは、辰之助に勝るとも劣らない。それは鶴が辰之助の努力を鼻で笑えるほどに、一意専心の研鑽(けんさん)を積み重ねて来た成果だった。そこに口を挟むのは、武士としてあってはならぬことだった。
声を荒げた辰之助が息を潜めたことを、この場所は厳かに受け入れた。しばしの静寂の後に、鶴は矢を放つ。矢が的に刺さるのを見届けて、辰之助は口を開いた。
「……父上が嘆いておったぞ。また縁談を断ったというではないか。そなたも飯尾(いのお)家の女ならばいい加減聞き分けぬか。もう十五であろう? 嫁の貰い手がなくなってからでは遅いのだぞ」
「求めておらぬものがなくなったとて、鶴は痛くも痒くもありませぬ」
「そのようなことをいつまでも……! 母上たちに忝(かたじけな)く思わぬのか!」
辰之助が声を大きくし、鶴が矢を番える。辰之助は肩に力を入れて、自分を宥めた。矢が藁束を貫く。その様を見届けてから、鶴は淀みのない動作で一礼した。そうして身を翻し、その場を後にする。
「どこへ行く! まだ話は終わっておらぬぞ!」
その背中を怒鳴りつけ、辰之助は鶴の肩に手を伸ばした。しかし鶴は背中に目でもあるかのように、ひらりとその手を躱(かわ)して先へ進む。袖垣(そでがき)の前までいって振り返ると、鶴は辰之助に一礼をして、袖垣の向こうへ消えてしまった。
「せめて夕餉(ゆうげ)には女らしい恰好で来るのだぞ!!」
その背中に、辰之助は怒鳴りつけた。袖垣の向こうから弓の端だけが顔を出し、一つ頷いた。辰之助は肩を怒らせ、的を眺めた。
「男であればな……この上ない弟であっただろうに」
鶴の放った矢はすべて、藁束の正中を取り囲んでいた。
*
屋敷の中庭にある井戸で、鶴は晒を解いた。鶴の肉体は十を超えた辺りから日増しに女性らしくなってきて、十五を迎えるこの日には、すっかり豊満な女性らしさを身に宿していた。地面へ引かれるようにして垂れさがる両の乳房を、鶴は眉根を寄せて左腕に乗せた。そうして少しだけ持ち上げて、汗ばんだ乳の付け根を手拭で拭っていく。
廊下の奥から歩いて来た少女が、鶴の姿をみとめて小走りに駆けた。少女は縁側まで来ると、恭(うやうや)しく両手に抱えていた膳を丁寧に床に置いて、慌てた様子で着衣の裾をまくり上げ、履物もなしに中庭へと飛び出した。
「おひいさま、そのようなことは私がしますから!」
少女は鶴に叫びかける。鶴はその声に顔を上げ、少女を見上げたが、その口から出たのは答えともつかない言葉だった。
「梅! ちょうどよいところに来た、少し手伝え」
「もちろんです、もちろんですおひいさま。いいえお手伝いなどではなく、私一人でやりますから、どうぞおひいさまは縁側におかけになって楽になさっててください。ねっ、お願いです」
梅は駆け寄って鶴の手から手拭を奪い去ると、鶴の手を引いて縁側へと連れ立った。鶴は「わかったわかった」などと言いながら言われるがままにして、縁側にどっかりと足を開いて座り込んだ。両の手を膝に置いて、一度井戸に戻って水の入った桶を持ってくる梅の背中を眺める。その面(おもて)には、辰之助の前では見せなかった笑顔が浮かんでいる。
「まったくもう、何度申し上げてもお一人でなさってしまうんですから。叱られるのは私なのですよ。また弓の稽古でもなさってらしたんでしょう? つい先刻も旦那様に『鶴はどこか』と尋ねられてしまいまして、私なんとお答えしてよいものか。昼八つにはお戻りになられると、それだけ申し上げましたけれど……そうだおひいさま、旦那様がお夕餉におひいさまをお召しですよ。この間のご縁談のお話でしょうか……」
立て板に水を流しながら、鶴の体を丁寧に拭っていく梅を、鶴は笑みを湛(たた)えて見やる。鶴が何も答えずとも、梅は次々に言葉を繰り出していた。
「おひいさま、もうご縁談をお断りになどならないでくださいましね。おひいさまがあの手この手でお逃げなさるものだから、他所ではすっかりおひいさまは醜女(しこめ)だ疱瘡(ほうそう)だと噂が立ってしまっています。おひいさまはこんなにお美しくていらっしゃるのに。私悔しくて悔しくて。一目でもおひいさまがお会いくだされば、そのような噂など吹き飛ぶに違いありません。ですからおひいさま、今度のご縁談は……」
止まらぬ口に業を煮やしてか、鶴は梅の頬に手を伸ばした。梅のよく回る口が静かになり、梅は鶴を見上げた。鶴の眼差しは口ほどにものを言い、鶴の鍛錬を欠かさぬ硬い手は、力強く梅の顎を手繰り寄せた。梅はそっと目を伏せその行為を受け入れた。鶴の物言わぬ口と梅のよく回るそれとが重なり、辺りは静まり返る。鶴は自分を受け入れる少女の瞼をじっと見つめた。しばしの口吸いの間、梅の瞼が開くことはなかった。鶴は口を離すと、顔を近づけたままで口を開く。
「許せ。わしはずっとおぬしといたいのじゃ」
目を開いた梅が、熱に浮かされたような瞳を見せた。
「……おひいさまがご成婚なさっても、私は共に参ります。離れ離れになどなりませぬ」
まだ少し残る雀斑(そばかす)を朱に染めて、梅は短く答えた。
「そうかもしれんな」
対して鶴は涼しい顔で、とぼけたようなことを言う。そして梅の顎を離すと、もう十分とばかりに着衣を正し、晒を丸めて立ち上がった。
「部屋に戻る。一刻休むから、足を清めてゆるりとおいで。起きたら共に昼八つにしよう」
そう言い残して、鶴は確かな足取りで廊下を歩み去った。後に残された梅は、しばらくその後姿を眺めていたかと思うと、手拭を胸の内に抱くようにして深く呼吸をし、それからぎゅうと絞って袖の内に仕舞った。井戸に戻って言われたとおりに足を清め、膳を置いた場所に戻ると、砂粒一つも残らぬよう念入りに足を拭ってから屋内に足をつけた。汚れた自分の手拭を腰元の帯にかけると、改めて恭しく膳を持ち上げる。そうして梅は、自らの分を思い出すようにして鶴の部屋へと足を向けた。
二人が後にした中庭は、平生(へいぜい)の飯尾の屋敷の様を取戻した。そこには連綿と続く武家の仕来(しきたり)が、男女の習いが、より糸のように絡まり合って息づいている。誰の姿も見えぬこの些末な一角も、鶴にとっては目を背けたくなる現実の一部であった。それは、梅にとっても。